いっそ自分のために書くと、ブログは続けられる。「ブログ放置」からの卒業

書けなくなってしまった

「あ〜ダメだ。まとまらない」

また下書きとして保存し、文章は塩漬けになっていく。いつのまにか、文章を書けなくなってしまった。昔から文章を書くことが好きな方だったし、お仕事としても記事を寄稿させていただいているのに。

このブログも三日坊主みたいになってしまった。更新していないことが恥ずかしくて無理やり書いた文章は、振り返ってみれば何を言いたいかわからなくて、余計に恥ずかしくなって下書きに戻した。もうもはや文章の漬け物でもつくるのだろうか。そんなのは飯の種にもならない。

ただ逗子に移住してから、毎日のように変化して気づきがある。毎日、変化していておもしろい。正直なところ、いつも家族3人でいられて充たされている。だからこそ、他人の幸せが滲み出ている文章を誰が読みたいのかなと思う。もしかすると僕の家族や親しい友達までは、微笑ましくみてくれるかもしれないが、全く知らない第三者は興味はないだろう。

書くことと脱ぐこと

文章を書くということは、自らの精神がまとっている衣服を脱いで裸を晒し、それどころか内臓やら排泄物まで人様にお見せするような行為です。が、お見せする相手がたとえ「多数」であろうとも「不特定」だと、その感覚はストリッパーのような感じ。

中年とSNSーなぜフェイスブックは恥ずかしいのか 酒井順子「センス・オブ・シェイムー 恥の感覚 ー」

文章を書くということは、己を晒すこと。酒井順子さんはストリッパーという表現されているが、僕の知り合いのエッセイストの方は「血を流す」という表現をされていた。もはや裸を通り越しているじゃないか。でも言わんとしていることはわかる。いつだって文章がつまらなくなってしまうのは、自分をよく見せようと着飾ってしまうときだ。自分の自慢話は一文の得にもならない。

近頃、 SNSという社交場にでて着飾ることも億劫になってしまった。たとえ寝グセでスウェット姿でも、家族は受け容れてくれるし、打ち合わせがなければそれで仕事ができてしまう。誰かのために、着飾ることも、裸になることも、誰かに噛み付くこともなくなってしまった。

いっそ他人のために書かない。

そうであれば、いっそ読者不在の文章を書いてみようではないか。他人を意識して着飾ったり裸になったりするのでなく、自分が書きたいことをブログを書く。人と繋がりたいなら、人に合わせるのではなく、素でいることではないだろうか。SNSが社交場だとしたら、ブログは自宅にいるようなものだ。用がある人しか訪れない。

自分のために書いている、というのはある意味では真実であると思います。とりわけ最初の小説『風の歌を聴け』を夜中に台所のテーブルで書いているとき、それが一般読者の目に触れることになるなんて、まったく思いもしませんでしたから(本当に)、僕はおおむねのところ、自分が「気持ちよくなる」ことだけを意識して小説を書きました。

村上春樹『職業としての小説家』より引用

ここで村上春樹さんを引用するのは、いささか着飾っているみたいでアレなのだが、勝手に村上さんの言葉に自分を重ねて心がふっと軽くなっているのを窓から覗いてどうか笑ってほしい。ブログ名も「くらしごとハウス」という自宅名に変更した。

遠い中「くらしごとハウス」までお越しいただいてありがとうございます。着飾ることも、裸になることもない、いつもどおりのことしかありませんが、よかったらまた遊びに来てください。

 

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です